昭和40年06月29日 夜の御理解



 信心の心が穏やかで、喜びがいっぱいということは、こんなに有り難いことはない。自分自身も助かっているときであり、しかもその事が周囲に有り難いものの雰囲気を作って行くです。今日兎に角あの、私共がですな妙なことを言うたりですね。信心とはこうすることがほんとと分かっておっても、それが出来なかったり、この、自分のことを自分で言いよるときには、確かに自分の心から神様を遠のいておる時ですよね。
 今日私夕方から妙なことばっかり言いよる、自分ながら分かりきっとること。もうどうして皆が馬鹿なことばっかり言うじゃろかとか。どうしてそのここんところに、まちっと熱意を持たんじゃろかとか。もう兎に角その自分が馬鹿んごたるところは分からんのに、自分が熱になるところは分からんのに、人ばっかり言いよる。ね。そういう例えば、ほんなら、いらいらしたような感情の時ですね。
 今日あたりも、久保山先生あたりなんかはもう、実にそのもう何と言うですかね、もう言葉じゃないですね。もう雰囲気ですよ。だからその中から言われることですよ。だからこちらの心がそのたびに静まって、清まっていくですね。もうそういう時にはです。この頃先生ちっとあれで助かってあるですもんね。だから本当に私はおかげ頂いて、今日は久保山先生のおかげで、あのおかげ頂いたという感じでした午後から。ね。
 例えば、あのこう思わんならんと、言った様な事でするのじゃないですもんねえ。今日はあの敬親会で、あのお婆さんたちの話を、聞かせて頂きよりましたら、その養子さんがカチカチその、どこでんここでん、電気を点けるち言うわけですね。もうそげん点けちゃ勿体なかちこう、お婆さんが思いなさる訳ですたい。そしたらその、家のお婆ちゃんが言いよるとですもん。
 「ほんなら、ちゃんと年寄りのおんなさるけんで、危のうなかごと、点けてやりよりなさるごと思いなさりゃ、あなた良いじゃないですか。」て言うようなことを言うて。そげな事ではです。おかげの頂けるものじゃなかて。そんなもんじゃないて、信心ち言うものは。そんなもので、例えば、無理に、そんなふうに思うたからち言うて、助かったち言うものじゃないて。
 私が、その、年寄りが、ぼとぼと、しよるから、若いもんが電気ををどこにでん点けてくれると、言うようなですね。そういうようなものじゃないて、信心ちゃ。やっぱり、点けていけないところは、点けちゃいけない。で、そこに、本当にあの、いわゆる、言うなら、今日の久保山先生の、午後の状態というですか、私が、度々に、言うたり、その雰囲気から感じる事ですたい。
 そういうものを、もう、何ぼその、そういう事を思わんでも思わんでも済むような状態です。信心の本当に助かっている状態、和賀心というのはね。和らぎ賀こぶ心というものは、そういうものであって、そういうものが、人が、あの、例えば、いらいらしている者の、受け返事をしてもらう時に、何か、こちらの俗悪なものを向こうが吸収してくださるような気がする。こっちが度々に清まる。
 例えばその、雰囲気だけでも、例えば、ほんなら私なら私が、ああ、こげなことは、分かりきっとるごと、こげなことを、みょうなこつば言いよると言うようなですね。改まらする働きというものがあるんですね。本当にあのう、そこんにきが何と言うですか、信心のもう、素直なじょうたい、信心が正常なじょうたい。時にはね、いろんなその、全然問題にならないですね。
 それでいて、自他ともに、そのう、有り難いふんいきというものが出来てくる。そういうような状態を求めていく。お互い信心させてもらわなきゃならん。ところがさあ、人間ですから、なら、久保山先生なら久保山先生でもですたい。ね。そげな状態のときばっかりであれば、もう、ほんとにすばらしいですよ。先生も一緒に助かってござるときですよ。ところが、どっこい。
 そうばっかりは問屋が卸さないち言うことですね。ほんなら私共でもそうです。ですから、そういう状態を、一つ本気で伸ばして行こうと。同時に、自分が妙なことを言いよる時には、もう、その、じっと、ほんなら、言わずに辛抱して、心の修正というか、持ち直しがというか、信心になるところまで、何か精進努力しなければいけないと思うですね。おかげ頂かねばいけません。